将門も祈願したパワースポット
香取大明神は、将門の父良持(良将とも)が勧請し、この地方の総鎮守としたという。 将門はここで猛き者を集め出陣式を執り行った。 将門ゆかりの相馬野馬追では、今も相馬三妙見で出陣式が行われている。
平将門の本拠である豊田舘は百年を経て、ライバル平貞盛の弟繁盛の流れを汲む平政幹、その長子広幹に与えられ、向石毛城として中世の名族豊田氏陣営の一翼を担うこととなる。
寛永三年の将門の名誉回復についても前々回に記事で触れている。こうして香取大明神の御祭神は、将門が勝利を祈願した軍神・経津主命に加えて、関東の覇者・平将門公、さらには地元領主豊田氏の祖・平政幹公を祀ることとなったのである。
昔のような土地を巡る争いは無縁となった現代にあっても、人はそれぞれの居場所や領分を求めて闘っている。“知の怪物” 佐藤優氏の『人に強くなる極意』 が売れているようだ。 香取大明神の武勇にたけた三柱の御祭神に祈願するならば、恐れることは何もなくなるであろう。
昌泰年間(八九七~九〇一)平将門公の父従四位下鎮守府将軍良持公が、下総開拓の府としてこれより西方約○. 七キロメートルの台地国生に下総国亭(庁)を置いて政務を執るにあたり、任国一の宮である東国創業の祖神香取明神を総社として勧請し、創祀したのが始まりと云われ、その後、良持公向石下に本拠舘を構えるに際し舘正門北方のこの地に豊田本郷の総鎮守社として遷座させたものと伝えられている。
この神社前方一帯の地は豊田武夫の集合場所とされ将門公に率いられる郎党郷党の寄場で戦勝祈願の後出陣したるところと云う。 天慶三年二月十四日将門公石井の地に戦死の後は冤罪忌憚に触れ祭祀の吐絶えること既にして百余年。 天喜三年(一〇五五)若宮戸住石毛赤須四郎平政幹公は前九年の役に一族郎党を引具して八幡公父子に従い戦功によりて豊田郡を賜る。 本拠を天然の要害豊田舘跡に構築して長子石毛太郎広幹を拠らしめ、香取大明神を守護神として再興するも地名に依りて人丸明神と称す。 天文五年(一五三六) 社殿炎上するところとなり、元亀四年(一五七三) 正月神祇官に再建を願い出るも許可なく、寛永三年(一六二六)神田明神の祭神として将門公が勅免されるに遅れること八十余年、社名を旧縁に復して香取明神と改め、正徳四年(一七一四) 社殿の改築なりて現在に至る。祭神は、開拓と和平の神、経津主命 (ふつぬしのみこと)、合せて平将門公、豊田四郎政幹公を祀る精魂不滅、産業振興と武勇の守り神として名高く一切の諸願を成就させると云う。
昌泰年間(八九七~九〇一)平将門公の父従四位下鎮守府将軍良持公が、下総開拓の府としてこれより西方約○. 七キロメートルの台地国生に下総国亭(庁)を置いて政務を執るにあたり、任国一の宮である東国創業の祖神香取明神を総社として勧請し、創祀したのが始まりと云われ、その後、良持公向石下に本拠舘を構えるに際し舘正門北方のこの地に豊田本郷の総鎮守社として遷座させたものと伝えられている。
この神社前方一帯の地は豊田武夫の集合場所とされ将門公に率いられる郎党郷党の寄場で戦勝祈願の後出陣したるところと云う。 天慶三年二月十四日将門公石井の地に戦死の後は冤罪忌憚に触れ祭祀の吐絶えること既にして百余年。 天喜三年(一〇五五)若宮戸住石毛赤須四郎平政幹公は前九年の役に一族郎党を引具して八幡公父子に従い戦功によりて豊田郡を賜る。 本拠を天然の要害豊田舘跡に構築して長子石毛太郎広幹を拠らしめ、香取大明神を守護神として再興するも地名に依りて人丸明神と称す。 天文五年(一五三六) 社殿炎上するところとなり、元亀四年(一五七三) 正月神祇官に再建を願い出るも許可なく、寛永三年(一六二六)神田明神の祭神として将門公が勅免されるに遅れること八十余年、社名を旧縁に復して香取明神と改め、正徳四年(一七一四) 社殿の改築なりて現在に至る。祭神は、開拓と和平の神、経津主命 (ふつぬしのみこと)、合せて平将門公、豊田四郎政幹公を祀る精魂不滅、産業振興と武勇の守り神として名高く一切の諸願を成就させると云う。