常総市石下地区

常総市の石下地区は平将門の生誕地とされ豊田館を本拠とし将門の乱を引き起こし、関八州を掌握した。
乱は平貞盛と藤原秀郷の手によって鎮圧されたが現在でも法輪寺や香取大神宮、西福寺など将門縁の史跡が多く点在している。中世は多賀谷氏の支配化にあったが関ヶ原の戦いで東西中立を保つと秋田へ下向、江戸時代は幕領や旗本領となり比較的短い期間で領主が変わった。

祭神

 祭神は、開拓と和平の神、経津主命、平将門である。経津主大神 (ふつぬしのおおかみ) 別名を伊波比主神・斎主神(いわいぬしのかみ)、 斎之大人(いはひのうし)。
 経津主神(ふつぬしのかみ) は日本神話に登場する神である。『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。
 『日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が生んだのが経津主神であるとしている。葦原中国平定では武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫鄉(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。
 神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神である。一説には、神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。 逆に『先代旧事本紀』では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。
 『古事記』においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。 後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。
 接社 白山姫神社(伊弉諾尊)人丸神社(柿本人麻呂) 稲荷神社(宇迦之御魂神(うかのみたま、倉稲魂命とも書く) 大杉神社(大国主命) 鷲神社(天日鷲命(あめのひわしのみこと) 日本武尊(やまとたけるのみこと)をお祀りした由緒正しい神社)

香取神宮

 経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。

向石下「香取神社」

 平将門が生まれたのは現在の常総市(旧石下町)である。戦勝の際祈願した神社と伝えられている。将門は、ときの中央政府に背き、常陸国府(国府は諸国にあった地方統治の中心地)を襲撃した武将である。もともとは親類の領地争いに巻き込まれたのが発端ともいわれているが、一時は坂東(関東)に国を造り上げるほどの勢いがあった。常国府を襲撃したのは天慶二年(939年)11月のこと。それ以後後戻りのできない戦いに将門は突入し、最後には中央政府から派遣された藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれて波乱の生涯を終えた。
 平将門の父鎮守府将軍平良持は、下総開拓の府として、西数百メートルの国生に下総国庁を置くにあたり、東国創業の祖神香取明神を総社として勧請したのが始まると伝えられる。精魂不滅、産業振興と武勇の守り神という。昌泰年間(897〜901年、しょうたい【昌泰】とは、日本の元号(年号)。平安時代の898年から901 年まで、醍醐(だいご)天皇の代の元号。前元号は寛平(かんぴょう)。次元号は延喜(えんぎ)。898年(寛平10)4月26日改元。醍醐天皇の即位にともない行われた(代始改元)。
 平将門公の父良将公が国生に国庁を置いたとき、総社として下総国の一の宮の香取明神を勧請した。その後、祭祀が途絶えていたが、政幹公が前九年の役の戦功により、豊田郡を賜ると、守殿神として人丸明神として再興した。その後1536(天文5)年に社殿炎上、1714(正徳4)年、香取大明神として再建された。(正徳年間の江戸幕府の将軍は徳川家宣(いえのぶ)(6代)、徳川家継(いえつぐ)(7代)である)
 境内に大きな石が2つある。「力石(かつぎ石)」といい、石の重さは135kg、112kgある。